わたしは、感覚派ヒーロー。
戦わない。
やりたくないことはやらない。
誰も救ってないけど、自分だけは救ってる孤高のヒーローさ。
自分ひとりをちゃんと守るだけでも、十分ヒーローだ。
社会的に“間違ってる”かもしれないけど、自分的には“間違ってない”
今日はそんな自分の守り方の話。

最近、バイトの初日をバックれました。
いわゆる「すっぽかし」ってやつです。
自分で応募しといて、
面接もOKもらって、
初出勤日も決まって、
「これでやっと収入が…」なんて期待もしてたのにも関わらずです。
出発の3時間前になって、
急にこう思ったんです。
「…行きたくない」

もう少し正確に言うと、
「人と話したくない」とか
「何もしたくない」とか
「お金の為に働きたくない」とか、
そういう気持ちが押し寄せてきました。
この気が重くなる感覚は単なる怠惰なんじゃないかと自分を責めたくなりました。
そもそも、なんで応募したのか。
「このままじゃヤバい…お金ない…」
「ひとまず、稼げそうなとこ…」
「ここ、時給いいかも?」
そんな理由でした。
ですが、そうやって「外側の理由」で動いたことは、だいたい途中でめんどくさくなるんですよね。
わかっていました。
本当は、そんなにやりたくなかったんです。
強い億劫感、居心地の悪さは
本来の自分にそぐわない選択をしようとしているサインでした。
焦っているときは、
「やりたくない」っていう本音よりも、
「やらなきゃ」っていう圧のほうが勝っちゃうんですよね。
特にお金のことになると、人は判断能力下がりますから。
お金の為にという不足感に基づく選択が、
「お金のために気乗りしない仕事でも我慢しなければならない」というビリーフに気づかせてくれました。
そのような制限的な思い込みをこれからも持ち続けるのか問われたわけです。
本当は人生はなんでも実現可能だと堂々と言える人になりたいのに。
自分のワクワクや情熱に従って生きたいのに。
自己正当化と思われていても仕方ないのですが、自分に正直になった結果がこれなんです。
行かない勇気ってやつですw
その決断によって、より自分の心が軽くなる方向、つまり本来の自分に近づくためのふさわしい道を選び直すチャンスを得たんです。
あのまま無理して行ってたら、
心のどこかを置き去りにしたまま、
“ちゃんと笑顔で”“ちゃんと頑張って”
“ちゃんとできたふり”をしてたと思います。
それはもはや、わざわざ自分の心を鈍くしにいくのと一緒なんです。
正直、すっぽかしたことにちょっと罪悪感もあるし、「いい年して何やってるんだよ…」って思わないわけじゃない。
でも、
行かないという選択も、愛だった。
今回はそれでいい気がしてます。
感覚派ヒーローは、
今日も何もしてませんが、
ちょっとだけ自分のことを好きでいられました。
めでたしめでたし。
怖れとは実は本来の自分自身と方向がずれている観念にふれるためのメカニズムである
by Bashar